(2002.5再訪)
夏場の挑戦で藪に阻まれ、雪解けの季節には予想外の深雪に諦めるなど、数度の失敗を経ながらも
雪解けが例年より早かった2002年5月に山形側坑口にアプローチした。最初の訪問から11年が
経過している。(廃道後35年経過)
現国道13号線 米沢採石入り口から入る 全く旧道の面影はない
採石場を通り過ぎると滝岩上橋 滝岩上橋の欄干
ここから九十九折りの登りが始まる。廃道後35年も経つと、路上が藪のみならず林になっているところもある。
さらにその林が倒木となり、複雑に絡み合っている地点もあるため、倒木の枝を折りながら道を作って進まねばならない。
そこに登りの負担が加わるため、大変厳しい道行きとなる。棘のある樹木も多く、手足に傷を負うこともある。
そのような道が数km続いたあとに、残雪を抱えた二つの坑口が現れた。
栗子隧道山形側坑口 明治と昭和の坑口が並ぶ
明治坑口
明治坑口 隧道右側 栗子神社跡
栗子神社のあった場所は完全に瓦礫の波と化している。神社のあった形跡は、今は全く伺えない。
洞壁には今も鏨の跡が残る
洞床には落石が並ぶ
坑口から光の届く範囲では落盤による閉塞は見られない。然し、奥にずっと延びているわけではなく、
坑口より約60mのところで昭和のトンネルに役目を譲っているため、人工的に塞がれているはずである。
洞床の落石には苔が生えている
内部より見た坑口の様子
上部の岩が大きく剥がれ落ち 洞床に積み重なっている
竣功後122年、廃道後67年を経て、洞壁に残る鏨の跡以外は人工洞穴であることを感じさせるものもない。
明治14年に明治天皇一行が通ったという事実も想像しがたい現状である。
明治の竣功から昭和初期まで、このような明かりの一切無い800mを越える洞穴を、人々が徒歩、あるいは
荷馬車を引いて通るには、その向こうにそれ相応の用事が有ればこそであっただろう。
「峠を越える」 − 現代では自動車に乗って鼻歌混じりにできてしまうこのことが、つい数十年前までは命がけで
別世界に旅立つほどの覚悟が要る行ないだったに違いない。
昭和坑口
坑門上の木が倒れて坑口に被さる
坑門の現状
昭和坑口内部 天井のコンクリートの石灰分が鍾乳石になっている
かなり傷みの進んだ内壁の様子
崩落した内壁は洞床に折り重なる 泥の堆積も見られる
内部から見た坑口
坑口前の国道跡
この時点ではこのように見渡しのきく状態であるが、夏期には人の背丈ほどの藪になり、近づく者を拒む。
現役時代には11〜5月の冬季通行不能期間があったという。いずれにしても厳しい自然に晒され続ける
この隧道跡を人が目にすることができるのは、この時期以外には難しいと思われる。
栗子隧道山形側 2002.5