山形市鈴川町。「鈴川」の名は明治22年に6つの村が統合するときにつけられたもので、
神明神社の御神体、天照皇太神宮が五十鈴川のほとりにあったことが由来という。
以後しばらくは鈴川村として農村地域になっていたが、昭和18年に山形市に合併された。
市街地とは馬見ヶ崎川を挟んだ形になっていたため、山形市に併合されても急速な市街地化は
進まなかった。しかし昭和42年に山形バイパスが鈴川地区を貫通する形で通ると
一転して宅地造成が進み人口急増地区と変貌した。
この地区の特質は、住宅密集地となった今でも道路の整備は進んでおらず、以前の
ままの細い道が迷路状に拡がっていることである。このため50年前の
古い橋が撤去されることなく住宅地の中に残されているのであった。
住宅地に残る古橋
北側2柱
東側高欄は傾いていた
経年劣化のためか、車の接触によるものか東側高欄が外向きに傾いており
親柱等の根元保護のためか、土嚢が隙間無く積んであった。効果は疑問である。
東側縁に積まれた土嚢
建造当時の高欄の高さでは全く用を為さないため白いポールで歩行者や自転車の
転落防止が図られている。橋下から水面までの高さはせいぜい1m程度である。
西側高欄
南側2柱の状態
漢字で書かれた「岩渕橋」の銘標は破損していた。竣功年銘標は2つあり、
いずれも明確に昭和33年11月の完工を示していた。この橋には更に側面に
「昭和三十三年改修」の陶板が取り付けられていた。
側面の陶板
まだまだ現役
河川名表記が橋の銘標に見られないため、橋の名がこの小河川に由来するものかどうかは今のところ判然としない。
橋下の流れ
閑散とした農村地域が余りにも急速に宅地化したことから、区画整理が間に合わず
古く細い道と橋が残された。現在のような密集状態では更に立ち退きを伴う大規模な
区画整理は難しくなってしまっただろう。そのおかげで岩渕橋はまだしばらく現役で在り続けることができる。
岩渕橋 昭和三十三年竣功
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