これを書いている2011年5月時点では、東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故により
原発より半径20km+指定地域の避難勧告が出ている状態で、福島県の風評被害が大きく、観光業も悲鳴を
あげているという状況との報道があった。ならば行ってみようと、国道121号を辿り大峠を越え、喜多方へ到着。
普段なら行列が出来る喜多方ラーメンの店々でも、並ばずとも食事ができるかもしれないと思ったが、
早く着きすぎてしまったためもう少し先まで行ってみようと思い立った。塩川町を過ぎ、日橋川に沿って
会津若松に向かおうと流していると、左手に雰囲気のある白い建物が現れた。
東京電力猪苗代第四発電所
現在(2011.5)、原発事故の被害賠償で会社の存続が危ぶまれている東京電力の水力発電所であった。
日橋川は猪苗代湖からの流出水量が豊富なため、明治、大正期に多くの水力発電所が建設された。
大正十五年竣工のこの発電所も、第四の名が示すとおりこの一帯では比較的後発の部類である。
水の落差を利用し発電するこの方式で生産される電力で事足りた時代は過ぎ、火力に
依存する比重が増え、やがて原子力に移行する。のどかな風景とマッチした水力発電所は
原発のような事故とは無関係、といいたいところだが某かの自然現象からのエネルギーを
電気に換えている以上、エネルギーの暴発による事故はあるもので、この発電所でも
昭和十二年、鉄管破損事故による七名の死亡者を記録している。
ふと振り返ると咲き誇る桜に包まれた古い鉄橋があった。
切立橋
単に発電所前に人を導くには立派すぎる弧を描くこの橋は、近づくとやはり
説明板のある稀少建造物であった。説明によるとこの橋は発電所建設用資材
を搬送するためにこの地に架橋されたもので、設置は大正10年であった。
移築前の所在は九州の鹿児島本線。製造はドイツで明治23年とのことである。
製造後120年を超えるものではあるが、造りの良さと行き届いた保守の成果で
さらに100年も持ちそうな様子に見えた。鉄文化の先進国で生まれただけのことはある。
元は鉄道橋ではあるが、道路橋に転用されたということで、律儀に親柱が
追加してある。各銘標には橋名の他に東電の社名が刻まれていた。
この橋の寿命が尽きるまで、所有者の東京電力は存在し続けられるであろうか。
原子力発電所の事故による親会社の致命的危機を知ってか知らずか、
切立橋は咲き誇る桜とともに水面に優美な姿を落としていた。
切立橋 明治23年(1890)〜 橋長49m