フラワー長井線
羽前成田駅
かつて国鉄、今は山形鉄道の経営による長井線(現:フラワー長井線)は経営努力を続けて
いるものの、行き止まり線であるということもあり大きな伸びは望めないため、沿線施設には
更新されることなく長い年月を経た古いものも結構残されている。駅でいえば羽前成田などは
大正時代の開業時のまま(大正11年)使われているという状態である。平成6年まで同様の
駅舎が残されていた蚕桑(こぐわ)駅は現在は建て替えられているが、それに先立って昭和62年、
駅の門柱の代わりに取り壊された古橋の親柱が据えられた。
蚕桑駅
橋名は鮎貝沢橋。駅の間近にある現橋が元の位置だと思うが、その長さはわずか18m。
その規模のわりには親柱の装飾は華美に過ぎるように思われる。高さは2m半あまり、上質
な石材を用い、礎石を別にすれば5段ほどの構成になっている。特に上部2段には幾つもの
意匠が施され、頂点にはガス灯であったと思われる照明さえある。(現在は電灯?)
表面のレリーフは凝ったものである。上部4隅に配置された1/4球の石材は別部品として
取り付けられているが、構造上破損しやすい部分でもあるため上部照明と共に復元時の後補である可能性も高い。
本来四柱の親柱であるが、保存されているのは二柱のみ。橋名と河川名の銘標は
オリジナルと思われる陶板製のものが残されているが、竣功年のものは残念ながら
見あたらない。代わりに復元時(昭和62年)の金属製の銘標が取り付けられているが
この年は現鮎貝沢橋の竣功年に当たる。すなわち、旧橋撤去後すぐにこの場所に移転され、
復元を受けたことになる。あまりの装飾の見事さに、撤去前から復元・保存の案が示されていたのであろう。
大都市の規模の大きい橋にはこれを遙かに凌ぐ親柱が据えられている例は多々あるものの、
山形県内の橋にはこれほどまで手の込んだものは少ない。それほどのものがこの小さな街の
片隅にあったということから、想像ながら駅名が示す養蚕が過去、いかに隆盛であったかが
伺い知れる。明治から昭和初期にかけて製糸・紡績業が日本の基幹産業となっていたことが
この場所にこの親柱をもたらしたと考えてもあながち誤りではないと思うのである。
残り二柱が廃棄されたか、他の場所に保存されているのかは今の段階では
明らかではないが、二柱だけでも最寄りの地に残したこの判断を讃えたい。
鮎貝沢橋跡 推定昭和初期〜62年