旧 東橋あずまばし(鶴岡市:元櫛引町〜元朝日村)

 

 

 

 

元朝日村ー元櫛引間の赤川を斜めに跨ぐ昭和初期の橋。

交通量の割には造りが立派で、元六十里越の主要箇所

であった過去の名残を思わせるものである。

 

 

    

南東側 親柱2基

 

末期時点では通行重量8tの制限がかかっていた。

老朽化によるものか設計上の初期値かはわからない。

 

 

  

破損の度合いが進む親柱

 

昭和初期建造という年代から察するに妥当な程度かと思われる破損が

各親柱、高欄に見受けられる。剥落したコンクリートの下から青銅の輪

が覗く。これは同時期の橋に時々見受けられるものであるが

実用を成していたものか、エンブレム的なものであったのか定かではない。

http://www42.tok2.com/home/ht990/linkB.htm 琵琶沢橋

http://www42.tok2.com/home/ht990/38tunatori.htm 綱取橋  等参照

 

 

 

 

           

銘標は破損もなく残っている

 

 

 

橋の景観を大きく変えた青い鉄骨は強度不足を補うための

後補のものであろう。長大なコンクリート橋には氾濫で牙を剥く

赤川は手強い存在に違いない。鉄骨アーチの力を借りて

使命を全うするまで耐えていたのである。

 

 

  

 

  

 

  

補強材の鉄骨

 

 

橋の命名については櫛引側の村に由来するとのことだが、朝日側の岩本にも

同じ字が含まれることから両者を象徴するものとして名付けられたと思われる。

 

  

 

  

 

 

 

先代の橋は吊り橋で、明治37年(1904)に新設六十里越街道の一部として

竣工した。治水も十分でなかった時代においては吊り橋は妥当な選択であったと思われるが

川幅の大きな当地では施工におおいな困難もあったと思われる。橋脚が流される心配はない反面、

強力なワイヤーもなかった時代のことであるから、吊り縄の保守には苦労したはずである。

 

  

 

  

 

 

 

  

 

 

昭和4年(1929)には橋は崩落してしまい、暫くの間、通行は不能となる。

橋の実働は25年間であったが、その間に架橋技術は大きく進歩し、永久橋

とも呼ばれるコンクリート橋が増加していた。東橋も永久橋を目指し、今度は

橋脚を河床に立てての架橋となった。川と直角に架けるのが最短のはずであるが、

東橋は何故か川を斜めに横切る線形で架けられた。理由はあったはずだが

それを示す資料は見出せていない。新しい橋は昭和7年(1932)に竣工した。

予定を大幅に前倒ししての建設であったという。

 

 

    

 

  

 

  

 

  

 

 

近年は、歩道もない橋として不満を訴えられることがあったが自動車交通も盛んでなかった頃に

これだけの橋幅を確保したのは先見の明といえるものであった。そのため途中、強度の不足が露呈し

鉄骨で補強することはあったにせよ、その時点での撤去を免れていたのだろう。

 

 

  

 

  

老朽化の進む各部

 

 

 

 

 

それでも寄る年波には勝てず、架橋から77年経った平成21年(2009)、

歩道を持つ新東橋にあとを託して旧橋は撤去された。

 

 

  

 

 

 

  

 

旧 東橋  昭和7年〜平成21年(1932-2009)

 

 

 

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