鳥海山から流出した溶岩が海に突き出し固まった地形ではないかと思われる。今でこそ国道7号線がすんなりと通過しているが、
この厳しい地形は永く人々の往来に支障を来すものであった。人一人が通るのがやっとで荷車はおろか、馬の通行さえできない。
そこを逆手にとって関所が構えられることもあった。
三崎公園駐車場:有耶無耶の関跡 海べりは近年整備された遊歩道
遊歩道ではなく旧道を辿る
下草刈りが施されているが藪のトンネルを通ることもある
昼なお鬱蒼としている大師堂境内
大師堂(三崎神社) 荒れ狂うような姿の奇木 戊辰の役戦没者供養塔
1200年前に慈覚大師が建立したのが始まりとされる大師堂が多くの五輪塔に囲まれ建っている。
大師は仏教の布教のみならず、産業振興や道路の開削などにも尽力したそうである。
また、この一帯は明治維新時の戊辰戦争の戦場ともなっており、大正時代まで人骨が辺りに
散在していたようだ。大正三年に大型ビール箱数個に掻き集めた人骨を容れ、
翌四年に供養祭を催したようである。今の世の中では人骨の放置など考えられない事態だが、
慶応四年(1868)の戦いから大正三年(1914)の遺骨収拾までの五十年近くの年月
境内に骨が散らばったままだったというのだから驚く。明治政府が、旧幕府方に付いた
庄内藩兵士の遺体、遺骨を見せしめのために回収を禁じ、晒しておいたとのことであった。
現在は、慰霊のための戊辰戦争に関する石碑が点在している。
現在は一里塚がどれであったのかは判然としない
旧道跡はさらに秋田県へと続く 明治100年(昭和43年)に建立
国道7号線からはただの森に見える ドライブインはつぶれていた
案内板の類は充実している
1689年に松尾芭蕉と門人の曽良がここを越えたため「奥の細道」の表示がある。
国道7号を通り過ぎれば何のこともない地に幾重もの歴史の襞が畳み込まれている。
ここを越えた幾多の人々、ここで戦い倒れた青年たちに想いを馳せて辿るのもよし、
単に海景に見とれるために立ち寄るのもよし、多くの顔を持つ旧道である。
有耶無耶の関の「有耶無耶(うやむや)」とは.(鳥海山の手長足長:参照)