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旧負ヶ沢橋(南陽市)

 

 

 

南陽市の吉野川沿い、太郎という地区のあたりに負ヶ沢という支流がある。

新県道5号小滝街道はその沢を負ヶ沢橋という橋で越えているが、並行して

1.5mほど低いところに旧橋が埋もれている。現道通過時には見えない。

 

 

 

 

 

 

   

旧道を辿る    地蔵尊前にガードレールの切れ目

 

 

 

旧橋が覗く

 

 

集落内を通る旧道は盛り土されて新道へと続いている。そのため旧橋は現道より低く、

ガードレールの切れ目より降り下って橋上に到達することになる。

 

 

  

石碑群が橋脇に並ぶ

 

 

  

新旧橋の高低差は約1.5m

 

親柱は四柱とも残存しているが、状態には大きな開きがある。

 

 

北側右の親柱

 

この親柱は最もしっかりしているがあまりにも破損がなく、後補が疑われるほどである。

少なくとも大幅な修復、改修は受けているであろう。

 

 

  

北側左は倒れている

 

こちらは地盤の関係か、倒れている。銘標は他のものより風雨に晒されにくくなっていると思われるが

逆に文字が消えており判読ができない。恐らくは河川名の表記がなされていたものと思われる。

 

 

  

銘標は読み取れない

 

 

 

 

   

橋上の様子

 

 

5月の時点ではこの程度の植生であるが、夏季には橋の姿が望めなくなるほどの繁茂があるものと

思われる。橋上には土砂、腐葉土が厚く堆積し、草類のみでなく樹木の生育まで見受けられる。 

 

 

 

   

南側左親柱

 

竣工は昭和最初期である。若干北に現役として存在する雨戸井戸橋よりも7年ほど古い。

 

 

   

南側右親柱

 

橋名は「まけがさわはし」これが沢の名に連動しているなら、沢は「まけがさわ」ということになる。

 

 

 

  

藪に埋もれる

 

  

高欄の状態

 

高欄には鉄柱の部材が使用されている。これが当初のものであるかは大いに疑問である。

錆びているとはいえ、80年以上も風雨にさらされたものとは思えず、後年の補強財と推測する。

もし当初に鉄柱を用いていたとしても、金属類は戦時中に供出された可能性がある。

 

 

 

  

 

 

昭和三年当時としては幅の広い十分に立派な橋であっただろう。

それだけここが要道であったともいえる。

 

 

  

  

橋の下から見上げる

 

 

樹木が繁茂する

 

 

 

流れの隅には桜の花弁が積もる

 

吉野川に流れ込む沢は五月の桜の花びらを押し流しながら谷を走る。

その上を今も昔も跨ぐ橋は自動車を流し続けている。

 

現 負ヶ沢橋

 

  

銘標は銅版

 

現橋は昭和58年より供用開始になっている。旧橋の実働機関は55年間である。

 

 

  

平仮名の橋名に注目

 

現銘標に表された文字は「おいがさわはし」新旧橋の関係性の一番の問題点である。

漢字表記が同一にもかかわらず、読みが異なる。同じ読みに異なる漢字を当ててある

(例:成沢→鳴沢)ものは多くあるが読みがまったく異なってしまう例は少ない。

地名は文字の認識率が低かった時代から主に口伝で語り継がれるものであり

少々訛ったり、詰まったりすることはあっても大抵は同一の言葉で表される。

 

昭和の初期と末期で読みが異なるということは何らかの事情で地名(河川名)を

変更せざるを得なかった事情が伺われる。それはたぶん、この河川名の元の名の語感に

よるところが大きいのではないか。昭和初期の時点で「まけがさわ」となっていたという

ことはそちらが「本名」であろう。それが現在「おいがさわ」になっているいきさつは明らかではないが、

推測される要因のひとつは戦争の影響である。戦時中には外来語を敵国語として禁止したり、

戦争の敗退をイメージさせるものを駆逐したりした。その流れで「まけ」という名が忌み嫌われ、

改名を強行されたという説をここではあげておきたい。 

 

   

 

 

 

負ヶ沢橋   昭和三年竣工

 

 

 

 

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