その他  現役隧道集8 主寝坂トンネル

 

 

 

 

羽州街道の一部として古くから人の往来のあった主寝坂峠。その変わった名前の由来には

諸説あるものの、秋田矢島の姫(主)が従者の若武者とこの峠の通過時に寝た、というものが

最も有名な話になっている。しかし、伝説では二人きりだったということであり、漏れれば命に

関わるこのような事態を当人たちが後々伝説に残るほど周りに語り伝えたとは考えがたい。

塩根(しおね)の別当て字という説の方が現実的な解釈であろうと思われる。

 

 

旧道から柵を隔てて新道

 

 

羽州街道に由来する道はその後、三島県令により雄勝新道として整備されたが、その時点では

三島自身の判断に因るものか、栗子や関山のように隧道を穿たれるには至らなかった。

旧峠道は1959年に通された主寝坂トンネルの登場により廃され、トンネルは山形県の背骨

国道13号として雄勝トンネルと共に秋田−山形間の交通の要所として活躍することになった。

 

 

 

 

 

 

真室川側坑口

 

  

 

 

 

時代は流れ、効率化から貨物車の大型化が進むに従い次第に主寝坂トンネルは

難所扱いされるようになった。大型車にとっては狭く低いというのがその理由であった。

(全幅6m、高さ制限3.6m)

 

  

坑門の欠け 内壁の傷

 

 

制限数値は示されていても、事実上付近に迂回路はないため少々の無理を承知で通過しよう

とする貨物車はあとを絶たなかったようだ。そのため坑門、内壁には無数の傷、欠けが見られる。

 

 

  

 

  

新トンネル開通後 交通量は激減

 

  

 

2005年に新主寝坂トンネルが供用されると旧トンネルは全くと言っていいほど交通が無くなった。

大型車がひしめき、写真さえ撮れないほど危険きわまりなかったかつての面影はまるでない。

 

 


 

金山側坑口

 

 

    

 

  

 

 

 

道路幅9.5mの新トンネルが開通してなお、狭溢な旧トンネルを残置したのは新道が

東北中央自動車道の一部として建設されたという事情によるものであろう。本格的に

自動車専用道賭して運営されることになれば125cc以下の二輪車や、軽車両、歩行者

などは通行できなくなるため、それらの交通路として使用される。また、将来の有料化に

より、生活路として使用している人のために無料道の選択肢がなければならないことなど

から、要職を解任されたこの旧隧道は閉鎖を免れ、生き延びることになったのである。

 

 

  

 

 

  

 

  

 

このトンネルにもやはり殉職者があった。昭和三十二年に伊藤金三郎氏が殉職した旨の記述がある。

 

 

 

秋田は隣県ではあるが、県庁所在地同士が遠く離れているため交流は多くない。山形−仙台間のバス

などは10分に一本の割合で発着しているのに比べ都市間交通もほとんど無い。鉄道利用時には山形−

東京間が3時間を切っているのに山形−秋田間はずっと以前から4時間超、「こまち」を使っても3時間半を

切ることはない。近くて遠い秋田への道は主寝坂トンネルの代替わりでいくらかでも近くなっただろうか。

 

 

  

 

旧主寝坂トンネル  808m  昭和34年竣功

 

 

 

 

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