村山市岩野の集落を千座川に沿って西にさかのぼると、山間の渓谷に明治の石橋が架かっている。
左は採石場 発破作業あり危険 右は橋に続くはずだが積雪通行止め
3月も末だが路面の積雪は約80cmほどもあり、車両は通行できない。
橋方向に向かって、わずかに人と獣の足跡があるのみである。
本来は車道であるがこの状態では徒歩に頼るほか無い
ガードレールとほぼ同じ高さの積雪 橋が見えてきた
橋上も厚い雪に覆われている
明治の石組みを残す橋の現状 眼下の渓谷
コンクリート製の高欄
高欄は明らかに後補のもので、親柱もない。簡素であるが、これさえかなりの年月を経ていると見え、
苔に覆われ違和感のない存在となっている。対して外観を損ねているのは、石組みと高欄の間に
サンドイッチされたコンクリートの帯。補強のためと思われるが、コンクリートそのままの生々しさである。
文化財としての保存工事であれば強度のみを考えた安易な補強をせずに、
手間はかかっても違和感のない仕上げにするべきであった。
無粋なコンクリの帯 西側には水道管が付いている
橋脚を支えている岩盤と そのもとを流れる渓谷
このような手の込んだ橋が明治時代にこの場所に設置された理由は不明である。
当時の同様な石橋は県内にもいくつか残されているが、いずれも街道の要所に
残されており、このような行き止まりに近いところにあるのはこの橋のみである。
(現在、この先にあるのはキャンプ場だけ。)可能性としてはこの先にある葉山の
信仰に供されたということがあるかもしれないが、それにしても他の石橋のように
三島通庸の命による街道整備とは異なる経緯を持ったもののようだ。
三島時代のものは明治10年代前半を中心に建造されているが、この橋は、
かつて天童にあったもののように、若干あと(明治20年代)のものとなっている。
追記:その後の調査によると、この橋は明治前期の三島時代に架けられた石橋を
参考にして、地元の職人たちが見よう見まねで架橋したという話が出てきた。
正規の街道整備事業ではなく、職人の腕試し的な石橋であるらしい。
請負人:石工 渡辺源太郎
昭和38年に上部木製高欄を鉄筋コンクリート製に換装
幾代橋 明治22年竣功
(2003.3)
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