明治の初め、当時の県令(知事)だった三島通庸が土木建設事業に力を入れたことから
山形県内にも多くの石橋が建設された。三島が薩摩藩出身だったことから、石橋建設の
技術を持つ九州の職人が招聘され、山形県内の石橋の建設と技術指導を行ったようだ。
今も南陽、上山に残る吉田橋、堅磐橋や楢下の石橋、また現在は失われてしまった常磐橋や万代橋などの
石橋は、それぞれ洪水のつど流されていた木橋に代わる永久橋として期待され、
明治の世に現れた。そしてそれら道路用橋の技術は寺社境内の人道橋にも取り入れられることとなった。
光禅寺の門
光禅寺は山形市鉄砲町にあり、400年ほど前に山形城主最上義光が設けたといわれている。
参道を進むと車止めがある
その先の池に石橋が架かる
凝った意匠の高欄
路面の敷石
中央のアーチは小さめ
河川橋とは異なり、川の流量などは考慮する必要がないため、このような形でも役目を果たせる。
高欄の表す図柄は雲と波か
人道橋ということ、境内にあるということから道路橋の石橋に比べ保存は格段に良く、目立った破損はない。
路面をアスファルトに覆われることもなかったため、本来の石の 路面を見ることが出来る。
高欄上部
山形市内に残存する唯一のアーチ石橋と言われている。
橋の向こうに本堂を見る
光禅寺の太鼓橋(本名不明) 明治12年
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