一貫清水橋
(いっかんしみずはし)
旧13号線(現112号)が恥川を跨ぐ、山形市荒楯地内にその姿を残している。名の由来は付近に湧き出ていたどっこん水(自噴湧水)
であるらしい。その清水に関連する水神碑が1つ下流の橋のたもとに残っている。
昭和初期、この道は「産業道路」として開発された。昭和5年当時の写真には、切り開かれた道の端にぽつんと白くこの橋が写っていた。
現在は親柱の状態はあまりよくなく、銘標もすべて失われ、竣工年も不明となっている。交通量の多いこの地にこれだけ古い橋が現役として
残されていることは驚きであるが、それだけ作りがしっかりしているということであろう。
昭和5年(1930)の画像 (北)鉄砲町側を望む
桑畑、水田を切り開き、山形市中心部から延伸した産業道路建設途中の様子。
当初から将来の幹線道を想定し、当時としてはかなりの道幅をとっていたことがわかる。
現在も残る一貫清水橋の親柱は両脇に白く、真新しく写っている。
平成17年(2005) ほぼ同位置からの様子
1999年の様子
2005年
北東側親柱
だいぶ傷んでは来ているものの、当初の意匠はよく残っている。
銘標は全て紛失している
この北東側の親柱の付近には、昭和7年の産業道路完成記念碑が建っていた。
しかし、その位置が歩道の妨げになることもあったためか、昭和50年代にこの碑は
1kmほど北側の山形市立第六小学校横に移されている。
移設された碑
産業道路開設の説明書きがある。昭和7年当時は一貫清水橋まで道路が整備されたことが記録されている。
その後、上山方面まで産業道路が延伸されるまでには更に3年以上かかっている。
左:記念碑 右:移設の経緯を記す碑
高欄と恥川(はずかしがわ)
南東側親柱
西側高欄
当初から広くとっていた道幅が幸いし、両側の高欄、親柱とも移転や更新を免れている。
一貫清水橋 推定:昭和初期竣功
現在国道112号となっているこの道は、以前は国道13号であり、最重要幹線道路であった。
ここより北(秋田・青森)に行く車も、南(福島・東京)に行く車も必ずここを通った。
後年、山形バイパスの完成にあたり、その名と役目を譲渡したが、現在でも重責を担っている
ことに変わりはない。竣功当時の大きな期待を受け、75年以上も風雪に晒されながらもその責を果たし続けている。
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