万世大路中にある橋として多分に有名になった橋である。
建設後70年、廃道後40年ほどを経てかなりの程度に傷みを見せている。
同時期に造られた他橋(杭甲橋、大平橋)に比べてもその劣化は著しい。
橋上の状況
この橋については他3橋とは異なり、廃道となって久しい今でも車両の通行がある。
負荷のかかっているはずの路面については今のところ大きな崩壊は見えていない。
藪に埋もれた親柱
親柱に名標は残存せず、損傷も大きい。
高欄はほとんど骨だけ
この橋の損傷の度合いは余りにも大きい。同年代の橋は皆、原形をとどめているにもかかわらず
この橋のみは末期的な状態を晒している。高欄の芯材の細い鉄筋が辛うじて橋の形を保とうとしている。
気象的に厳しい地点であることもあろうが、元のコンクリートの材質が他の橋に比べて劣るものであった
可能性も高い。また、杭甲橋、大平橋両橋が幕板付きの構造になっている一方、烏川橋の高欄はそうなって
いなかったということも劣化の進み方に影響があったものと思われる。同時期建造の新沢橋については当初から
鉄製の高欄であり、更にそれも現在は取り除かれているためこの橋の高欄との比較材料にはならない。
高欄の状態
崩壊面に見える内部のコンクリは、礫を多く含有している。混ぜものが多い分だけ強度は不足であろう。
二ツ小屋隧道内壁にも、同等のコンクリートが使用されていた様子があり、近年、崩壊が懸念されている。
烏川橋 橋長23.29m 昭和11年