その一   万世大路(栗子峠越え旧13号線)山形側

 

栗子隧道への道(山形側)

 

旧国道13号線は現在、米沢市川越石から米澤砕石という会社の敷地を通らなければ通行できない状態である。

この会社が旧道一帯の敷地を買い上げたとのことであるが、国道の払い下げなどというものもあるのだということを

ここで知った。私有地扱いのため、無断進入にならぬよう、事務所に声をかけて通ることにする。事務所の前が旧道と

いうことになっているが、実景はただの作業現場なのでとまどう。現場を通り抜けるとまもなく滝岩上橋が見えてくる。

 (※会社敷地は休日は閉鎖のため通行できない)

      

橋の近辺は路面整備が成されている            滝岩上橋親柱

 

 

 

この橋よりほんのわずか登ったところまでは、砕石会社により路面整備されており自動車の通行が可能であるが、まもなく道は川と化す。

    

路面を堂々と川が流れ下る

 

雪解けまでお預け

 

5月初旬ではまだ早過ぎ、やがて行く手は雪に阻まれた。この先雪は深まるばかりで徒歩での踏破も難しい。

次回また出直すこととするが、夏草の生い茂る前でないと大変なことになる。(2001.5)

 


 

       

 

滝岩上橋付近の山林の中に明治天皇が訪れた明治14年当時の記念碑が建っている。

しかし、これは文化財としては扱われておらず、放置されたまま忘れられているようだ。

 

石碑の存在は忘れられている

 

 

栗子隧道開鏨記念碑

こちらは明治の開通当初、隧道山形側横にあった記念碑。旧道閉鎖の際に、新道との分岐点に移されていたが

そこから更に現在は国土交通省栗子国道出張所の構内に移動された。移転前にあったほかの石碑は所在不明。

見上げるほどの高さがあり、上から下まで文字で埋め尽くされているが表面が変色していることもあって読みにくい。

 

 

 


 

 

山形側坑口再訪の画像 (2002.5)

(この年は雪解けが早く、2001年と同時期ながら坑口まで到達可能だった)

 


前回(1991年)探索時の様子

  昭和坑口

夏草をかき分けかき分け、道形を見失わぬようようやくたどり着いたとき、先に目に入るのがこの昭和坑口である。

温度の高い外気に坑内から流れ出る冷気が触れ、不気味な霞が漂う。坑門の表層はほぼ剥がれ落ちている。

 

  

 32年間使用された                         内部の様子

 

  

石灰分が溶出して鍾乳石となる                      内壁の崩落

 

  

    坑内から見る                        昭和10年3月竣功

 

落盤地点まではこちらの坑口のほうが近いとされるが、その他にも小規模な崩落が多く危険を感じさせる。自然光の届く範囲で探索を終わる。

 


   明治坑口

初代山形県令三島通庸が世界で当時3台しかなかった蒸気動力の掘削機を投入して掘らせたという隧道がこれである。

明治天皇が実際に通る際には内部はたいまつの光で満たされていたというが、現在その面影は全くなく、さながら天然の

洞穴のように見える。山形側では坑口は2つあるものの、内部で一本化されているため明治の福島側坑口はない。

記録によると隧道掘削機の他にもオランダ人技師エッセールを招いて指導させたりするなど当時の欧米最先端の技術を

取り入れ、4年余りの工期の間、負傷者は出したものの死者は出なかったとされている。後に行われた昭和の改修時に

前述のような死者を出したのとは対照的である。

 

 

明治の坑口  

 

機械を導入したとはいうものの、内壁のあちこちにはたがねの痕が今でも残っており、人力で仕上げたことがわかる。

 崩落を繰り返し、自然に還りつつあるので深入りは避けた方がよい。

 

  

さすがに崩壊が激しい                       悠久の時を思う

 

明治坑口の西側斜面には、完成当時栗子神社(豊受姫尊神社)が設けられ、大久保利通、上杉鷹山が合祀された。

この神社の祠は50数年後の昭和8年頃までは原形をとどめていたが、あまりにもひどい状態だった。そのため、斜面直下に

栗子神社の石碑を建てることとし、祠は昭和11年頃に取り除かれた。また、その時点で既に亡くなっていた三島通庸を

更に合祀したようである。栗子神社の碑は隧道廃止の昭和41年頃に山形側の新旧道の分岐点に移されていたが、その後

そこからも撤去され現在どこにあるのかはわからなくなっている。

 

 

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