26. 坂下橋(鶴岡市)



国道112号鶴岡市大山地内から加茂街道の加茂坂を上り始める場所は、加茂坂の下ということで、坂下と呼ばれている。

ここから高舘山を越え加茂の海辺に出る道は、加茂の港と鶴岡城下をつなぐ重要なルートであったにもかかわらず非常な

難道であったため、物資の輸送もスムースには行かなかった。

後に即身仏となる鉄門海がこの道の改修を思い立ち、着手したのは文化七年(1810)であったという。ろくな道具もなかった

時代にも関わらず、鉄門海を慕い、敬う人々の協力もあり、二年後の文化九年(1812)には初期の改修を終えたとのことであった。

二年間休まず新道の改修にあたった鉄門海は、その後文政十二年(1829)注連寺において即身仏修行に入り、即身成仏する。


加茂坂の改修はその後も続き、鉄門海の孫弟子にあたる鉄竜海がその任に当たっていた。この改修は明治四年(1871)に

竣工するのだが、この時代には鉄門海の頃とは異なり、火薬の使用により岩石を破砕するなどの手法もとられたという。

鉄竜海は竣工の六年後、明治十年(1877)には即身成仏しており、現在は鶴岡市南岳寺に安置されている。


改修は更に続き、明治十七年(1884)には、県令三島通庸の立案により、加茂坂の最上部を隧道にする工事が行われた。

隧道は約二年で開通し、昭和十四年の拡幅工事を経て、役目を終えた現在もその姿を残している。


     

加茂坂の始まりはここから                 片側の欄干 親柱のみが残る



        

残存する親柱二つ 橋名(左)と河川名と思われるもの(右)


橋名ははっきりと残っており、間違いないが河川名は現在の地図では菱津川となっている。しかし、銘標の欠けた字は「押」ではないかと思われ、

食い違いを見せている。

欄干が片側しか残っていないのは道路の拡幅改修によるものと思われる。北側の欄干、親柱には竣工年を示した銘標がついていたはずであるが、

早ければ昭和十四年の加茂隧道改修、拡幅の際に同時に撤去されてしまったものと推測される。竣工年が昭和五年であるから、そうだとすれば

現存する側の親柱、欄干が七十年以上の年月を経たのに対し、失われた側は僅か十年にも満たない実働期間であったことになる。



   

欠け 破損が見られる銘標 親柱の現状



        

橋の南側に生い茂る草                                       大山側を望む




坂下橋  昭和五年竣工  橋長6m  幅員9m




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