宝暦二年(1752)に坂巻大橋として架橋があるまで羽州街道が須川を渡る方法は渡し船しかなかった。
坂巻大橋が架けられて以降も、明治の時代に至るまで実に十五回前後もの流失、架橋の繰り返しがあり交通上も難所、悩みの種となっていた。
明治の錦絵
羽州街道が須川を渡る地点(片谷地・坂巻)に明治11年(1878)4月、当時の県令三島通庸の命により、近隣に例を見ない
五連アーチの石橋が起工された。それまでもこの箇所には木橋が架かっていたのだが、須川が暴れ川であったため、増水の
都度流失し、交通の要所としては心許ない状態であった。街道を軍事道とも考えていた三島は、この橋を出身地の鹿児島に
見られるような堅固な恒久橋にしようとし、山寺石三万個を使用するなど多額の資金を注ぐことを惜しまなかった。
完成一ヶ月ほど前の七月には英国の探検家イザベラ・バードもここを通りかかり、賞賛の言葉を著書「日本奥地紀行」に残している。
七万人を動員し、わずか四か月で完成した優美な石橋は有料橋として供用され、流されざることを祈念して「常磐橋」と命名された。
橋の付近には水難除けにと常磐橋水天宮までが祀られた。この橋に寄せるただならぬ期待が感じられる。
明治十四年十月には明治天皇がこの橋を渡る際、橋のたもとで休憩をしている。御小休所として建物も作られた。
古写真より
しかし架橋後僅か十二年後の明治二十三年(1890)、梅雨時の集中豪雨の際に増水した須川の流れにあっけなく五連石橋は
流失してしまう。そしてその際、水天宮に安置されていた常磐橋碑も橋と運命を共にし、水没したのであった。
その後、橋の碑は再建されるが、昭和四十四年(1969)の護岸工事の際に川底より79年間行方不明になっていた旧石碑が姿を
現し引き上げられた。その後昭和四十六年に修復され現在は新旧2つの常磐橋碑が再建された水天宮の境内に立ち並んでいる。
水天宮の看板
水天宮 由来の説明板
再建常磐橋碑
水天宮境内
旧常磐橋碑
旧常磐橋碑は斜めに二分された形で発見された。修復された継ぎ目がはっきりわかる。
修復跡
現在の常磐橋とガス管橋
上流側:常磐橋 下流側:ガス管橋
ガス管橋の下に橋脚の痕跡
河床に残る木製橋脚跡
ガス管橋の真下に残っているのは、先代木橋の橋脚の跡である。普段は見えないが
河川の水量が減少したときには水面に現れる。現橋と位置が異なっているのは流失後の
架け替えではなく、並行して工事されていたことによるものであろう。
明治の石橋は記録によれば現在の橋の北方にあったという。この木橋の痕跡の辺りであろう。
石橋の跡を探して片谷地側の岸を歩く。
護岸工事が施されてしまっている
川に面したところは全てコンクリートで固められてしまっていたが、さくらんぼ畑の中に
石垣を見つけた。畑の人によれば明治の橋の橋台にあたる部分だという。苔生していた。
畑の中に眠る石垣
石組みはしっかりしている
本体は流されて久しい(110年余り経過)が、残された石垣は揺るぎなく明治の姿を現代に残していた。
対岸には痕跡は皆無である
現在の常磐橋
明治23年に恒久橋と思われた石橋が流された後、人はまた橋に期待することをやめ、再び石橋が
架けられることはなく木橋の代替えが続いた。昭和四十六年に現在の橋が架けられるに至り、増水のたびの架け替えは無くなっている。
昭和初期の常磐橋(坂巻橋):古写真より
流失した明治の石橋の石材の中には下流の住民に引き上げられ、庭石その他に流用されているものもあるという。
しかしそれでも三万個に及ぶ石材の大半は今も河床に眠ったままである。
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