現役の古橋 43

 

弁慶橋

 

立川町清川から、清川橋を渡り松山町内に向かうと、途中親柱だけが古い橋がある。

高欄はパイプの白色ガードレールに置き換わっており、見るべきものはない。

しかし、橋の名前は「何故ここに?」と思わされるものである。

 

河川名は梨木沢川

 

 

 

        

親柱裏表 簡素な装飾

 

 

この路線には、「弁慶橋」の他に「義経橋」そして、「源平橋」が揃っていることになっている。

急ぎだったこともあり、他の2橋は確認できなかった。

 

この地に源義経ゆかりの橋名が残されているのは、1187年に義経一行が平泉を目指して

逃走する際、この付近の最上川を遡ったとされる伝説があることによるのであろう。

しかし、その物語が著されたのは、通過したとされる文治3年から200年ほども後のことで、

それが事実か創作なのかも判然としない。

 

ほぼ消えてしまった橋名(漢字)

 

 

 

         

親柱は古いながらも状態は悪くない

 

山形県内には義経が頼朝を逃れて通ったとされることに由来する伝説の地が多くある。

福井方面から鼠ヶ関を通って県内に入り、最上川を遡って途中羽黒山に寄り(弁慶による

代参)、戸沢の大岩で弁慶が腹巻きを干し(現:腹巻岩)、最上町の亀割峠で行く手を塞ぐ大岩を

弁慶が裁ち割ると間もなく、義経夫人の北の方は男児を出産する(亀若丸)。その後も弁慶は瀬見で

温泉を噴出させたり、松の木を投げたり、800年前のことながら各地に不思議なほど

ゆかりのものが残っている。(義経の話はほとんど無く、大半が弁慶にまつわるもの)

 

歴史か物語か。各地に伝わる地名の由来などの大半が創作によるものだと思うが、中には事実も

含まれているかも知れない。800年後の世界にこのような形で名を残していようとは

弁慶、義経の当人も知る由もなかったであろう。

 

橋上の様子

 

弁慶橋  昭和12年竣功  橋長14m

 

 

 

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