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その二十九 長井大橋 (長井市)

 

 

長井市街−伊佐沢間の最上川を跨ぐ昭和初期の橋。

この長井大橋とは別に2km下流に長井橋がある。こちらは1988(昭和63年)に架け替えられたが

長井大橋と長井橋の先代は同じ1931(昭和6年)の竣功で、構造も同等のものであった。

 

 

  

 

当時の最先端技術(ワーレントラス工法)を使って二本同時にこのような大規模な橋を架けることは

超大事業であったに違いなく、一本で間に合わせようという議論も当然あったであろう。しかしそれを

住民の努力が覆した。周辺住民は橋渡り当番を決め、動員をおこなってまで旧木橋の通行人員を

水増しし、それぞれの橋の必要性を行政にアピールしたのであった。

 

 

    

長井側 親柱

 

 

 

 

  

 

大型車の通行も多い

 

 

  

 

 

現橋が350m近い長井橋に対し、231mのこちらが大橋の名を賜ったのが何故かは疑問である。

現長井橋が旧橋より長く架けられた可能性はあるが、それにしてもその差が100m以上というのは

当時としては不合理である。旧長井橋もおそらくは大橋より長かったであろう。とすれば長井を代表

する橋として山形・白鷹など他市町との行き来に関わる橋に「長井橋」の名を与え、主に地区内の行き

来に使う二番手の橋には、区別する意味で「大」の字を付加しただけかも知れない。しかしいずれに

しても永きに亘り、長井を代表する二橋であったことに間違いはない。

 

    

伊佐沢側 親柱

 

 

 

 

長い間最上川の両側を繋ぎ、昭和42年の大水害、羽越水害にも落橋を免れた頑丈な橋であったが

設計年度の古さから自動車と歩行者の共存が考慮されていなかった。通学路でありながら歩道もなく、大型車

の通行に晒されながら子供達が通うという危険な状態が続いたため、地区の悲願として架けられたこの橋も

過去の多大な地域への貢献がありながら、いつしか住民の冷たい視線を受ける存在となっていった。

 

 

    

 

    

 

 

  

歩道のない構造

 

 

 

  

こどもたちには危険な通学環境であった

 

 

  

 

 

長井大橋の完成から70年あまりを経て再び新橋架橋は住民の悲願となった。付近が桜の名所であり、

とりわけ伊佐沢には銘木があることから、「さくら大橋」との名称が要望時点から付けられていた。

 

 

 

   

  

  

  

新橋は若干上流に建設

 

 

 

    

橋上の様子

 

 

 

地域の念願叶い、さくら大橋は2007年完成し、7月1日に渡り初めが行われた。

着手より完成まで約7年、総工費37億円の橋は全長571m、前幅14.5mで両側に

3.5mの歩道が設置された。これだけのものを用意しても社会情勢が変われば

長井大橋同様苦情の対象となってしまうわけだが、そのころの世の中はどうなっていることか。

 

 

70余年の勤労を終え、バトンタッチを果たした長井大橋は2007年中の解体が見込まれている。

 

 

長井大橋 昭和6年〜平成19年(1931−2007)

 

 

 

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