その二十八 鴨落橋跡 (高畠町)

 

 

 

高畠町幸町を流れる屋代川。その幸町三公民館前に全く面白みのない橋が架かっている。

鉄パイプの高欄はあるものの親柱は省略され、実用一点張りの仕様。構造体に見るべきものは

無い。しかし、橋名は「鴨落橋」−−−何か物語のありそうな名ではある。残念ながら現段階では

その由来は明らかではないが、この橋の先代の親柱が公民館敷地内に保存されていた。

 

 

幸町三公民館

 

 

 

公民館前に架かる橋

 

  

橋上の様子と橋銘標

 

 

 

  

公民館敷地に何かある

 

敷地の花壇の横にあるコンクリートの柱二本。半ば風化したこの柱が先代鴨落橋の名残であった。

 

 

 

   

花壇を挟むように立つ二柱

 

 

  

かなり進んだ風化

 

状態はかなり悪い。平仮名の橋銘を示す向かって左の親柱は既にほとんど大部分の

上塗りは剥落してしまい、むしろ橋銘の部分がしっかり残っているのが不自然なくらいである。

場合によっては橋銘の部分だけは再接着によって延命しているということも考えられる。

 

 

この橋に限らず、置賜地方では所々に旧橋の親柱が保存してある例を見る。

鮎貝沢橋 吉嶋橋 など

地域的な考え方の特質と見てよいのであろうか。

 

 

 

向かって右のもう一柱は竣功年を示している。

 

   

昭和四年 十二月の竣功

 

 

  

 

 

昭和の初め、雪深かったであろう十二月に真新しかったこの親柱は現橋の辺りで勤めに就いた。

それから十二年を経て日本は戦争に突入。敗戦。その後の高度成長、自動車時代。昭和も還暦

を迎えようとする昭和五十九年までの五十五年間、現役として屋代川越えの人々を渡しつづけた。

 

今、橋の周囲に鴨の姿はないが、かつてはその姿も多く見られたのであろう。

伸びた芦原も橋の頬を撫でていたかも知れない。黙して語らぬ傷だらけの親柱は

現在では護岸工事ですっかり整備されてしまった屋代川の昔を知っている。

 

 

鴨落橋 親柱  昭和四年〜五十九年

 

 

 

 

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