その二 旧関山隧道 2

 

関山隧道山形側再訪(2001年)

 

今回訪れて驚いたのは、前回まで残土の不法投棄や大規模土砂崩れで通行困難、不能状態になっていたこの道が見事に

復旧していたことである。廃道であるはずのこの道を大金をかけて復旧したのは、おそらく地元の森林組合であると思われる。

       廃道にも利用価値があるということであろう。

       旧道途中にある永昌橋についてはこちらを参照。

 

   

                山形側の旧道分岐点(右が旧道)                       山形側坑口

 

 

    

坑口付近の様子 扁額のあたりに植物が垂れていて見えにくい

 

 

  

内部の様子 山形側のたまり水は引けている

 

 


参考:1985年の隧道内部  山形側坑口まで水が満ちていた

  

 


 

入り口付近の崩壊箇所

 

山形側の道は再整備されたこともあり、宮城側とは違って通行には困らないが旧道の分岐時点で4輪車での進入が制限されている。

分岐点から徒歩なら約1時間というところであろう。以前水で満たされていた坑内も、今回(7月)は水が引けた状態になっていた。

 


初代山形県令三島通庸が明治15年にこの隧道を開かせてから、仙台との行き来が盛んになり、東北本線が仙台に延びた

明治20年頃には最盛期を迎えた。しかし、追って明治34年、今度は奥羽本線が山形まで届き、峠の交通は大きく後退した。

それでも山形県にとって重要な経路であることには変わりなく、冬期の通行を確保するために山形監獄より囚人を連行し、

       雪踏みをさせていたという記録があるようだ。

その後、昭和12年の大改修を経て自動車時代になると、峠はまた勢いを盛り返したのだが、今度は需要の多さに対して

カーブや落石、落雪の多い道は時代遅れとなり事故も多発した。昭和40年代に入ると自動車のスピードも増し、幽霊騒ぎ

が起きるほどの悲劇的な事故が起こるに至った。幽霊目撃談は当時の新聞にも載り、慰霊祭を催すなどの対策もとられたが

根本的な解決策として自動車時代に合った別ルートが設定された。標高を70m下げたため、トンネル延長が890mに延びたが、

無理なカーブは少なくなり、冬期の安全も増した。新トンネル完成の昭和43年に隧道は廃止され、前後の区間も廃道となった。

 

関山隧道  明治15年完成 昭和12年改修   延長298m 幅員6m  昭和43年廃止

 

 

 

 

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